ツキノワグマに関する最新研究を紹介した『ツキノワグマのすべて』(文一総合出版)。迫力の生態写真で本の制作に協力いただいたカメラマンの澤井俊彦氏に、ツキノワグマ撮影について語ってもらいました。〈前編〉
危険とされる動物であっても、出会い方によっては接近撮影が不可能なわけではない。
真夏の午後。北アルプス山麓で蝶の撮影をひと通り終え、友人とともに次のポイントへとクルマで移動を始めたときのことです。突然、左手の茂みから駆け出したのは全身が真っ黒な動物。こちらに顔を向けることなく道路を横切り、右手の森の中へと駆け抜けていきました。1990年代末期、私が初めてツキノワグマ(以下クマと略)を目撃したときの話です。
ちょうどそのころ、写真界にはデジタル化の波が押し寄せてきました。私は山で写真を撮り始めてから「コダクローム」というアメリカ合衆国製造のカラーフィルムだけを愛用し続けていました。コダクロームは「サイモン&ガーファンクル」の歌にもなった、超微粒子で保存性がきわめて良好なフィルムです。ただしISO感度は「25」または「64」と低く、そのため動物や鳥といった動きの速い被写体にはちょっと不向きでした。おまけにコダクロームは品質にバラつきが多く、色調が良好な「当たり製品」を入手するのにも苦労が絶えませんでした。
デジタルカメラを使い始めたのは、価格が下がり、かつ性能が向上した2007年ごろからです。すぐに気づいたのは高感度性能の高さでした。例えば「ISO感度400」で撮影したデジタルとフィルムの画像を比較してみると、明らかにデジタル撮影のほうが高画質に見えます。「ひょっとするといままで撮影が難しかった被写体に挑戦できるかもしれない」と考えるようになりました。しばらく経って気がつくと、私がデジタルで撮影する被写体からは急速に「山岳風景」が減少していました。代わって増えたのが「生き物たち」の写真です。デジタルカメラを使うことにより、風景より生き物を見つけて撮影するほうが楽しくなってきました。
もともと私は北アルプスを中心とした地域を撮影していました。日本海の海辺近くから標高3,000メートル付近の稜線まで、ここには複雑な地質と地形、それに伴う多種多様な風景と動植物が混在しています。
左/4月下旬、はるか遠方にいる親子を見つけた。
右/標高約1700メートル付近。5月も半ばになると草丈が伸び、動物の姿を見つけ出すのが難しくなってくる。
例えば、鳥であればイヌワシやクマタカといった猛禽類との遭遇もたびたびあり、森林限界を抜ければ絶滅危惧種のライチョウと出会える楽しさもあります。そんな北アルプスの撮影に通うなか、ひとつ気になるニュースが入ってきました。
「クマが人里に大量出没し、過去最多となる約5000頭が駆除された」というのです。2006年のことでした。当時集めていた情報では、ツキノワグマの推定生息数はだいたい1万5千頭程度とされていました。つまり、たった1年間で3分の2に激減したことになります(※1)。
※1:ツキノワグマの推定個体数については、近年になって大幅に「上方修正」されています。
「これはまずい」と思いました。かねてから生態系の頂点に君臨する存在として「どうしてもクマの写真が必要だ」と思ってはいましたが、出会ったのは冒頭に書いた、いわば「一瞬」だけ。とてもじゃないが撮れるシロモノではなかった。それだけに「急がないと本当に撮影できなくなるかもしれない」と思うようになりました。
そのため、翌春からはクマの存在をつねに頭の片隅に置いて現場に臨みました。この年に各地で3度、翌年には7度の目撃をしましたが、いずれも遠すぎたり障害物があったりと撮影までには至らず。それでも「もしかすると言われている以上の個体数がいるのではないか」との印象を持ちました。遭遇に至らない場合でも、見つける手がかりとなる痕跡はしだいに新鮮なものが目に留まるようになっていました。「きっともうすぐ撮影できる」という感触です。
ようやくその姿をしっかりと捉えることができたのは、2009年の8月の富山県。狙い始めてから約2年半が経過していました。その翌月には北アルプス乗鞍岳の畳平バスターミナル(標高約2700m)で、これまで最大となる観光客など10名がクマに襲われるという人身事故が起きています。
初めのうち、クマについては、数枚の生態写真さえ撮影できればそれで満足できる存在だと思っていました。イヌワシのような希少動物でもなく、誰もが知っている山の代表的な動物ですから。ところがクマの姿をしばらく追っているうちに、次第に考えが変わってきました。
もともと私が撮影の舞台にしてきた「日本海の海辺近くから標高3,000m付近の稜線まで」の全域が、クマの出現領域だとわかってきたこと。そして、希少動物ではないにせよ、生態写真さえまれな動物だということに気づきました。自分が撮影できるかどうかはともかく、クマが本来持っている多様性……つまり「さまざまな環境に生きるクマの姿(多環境適応能力)」に踏み込んでみるのもおもしろい、と考えるようになりました。当然ながら撮影には困難が予想されますが、おそらく多様な環境を取り込んだクマの撮影までは誰も試みようとはしないだろうと思っていました。
(後編へ続く)
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Author Profile
澤井俊彦
東京都生まれ。1980年から北アルプス地域でコダクロームフィルムによる撮影を始め、現在は『季の肖像』『森の肖像』『山の肖像』の3つを柱にして日本の山を撮る。2016年、第5回田淵行男賞受賞。