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4/2 2021 New!

『ツキノワグマのすべて』によせて〈後編〉

ツキノワグマに関する最新研究を紹介した『ツキノワグマのすべて』(文一総合出版)。迫力の生態写真で本の制作に協力いただいたカメラマンの澤井俊彦氏に、ツキノワグマ撮影について語ってもらいました。(前編はこちら)

北アルプス稜線へ

どうしても撮影しておきたかったのは、森林限界を越えた高山帯に生きるクマの姿です。
山岳風景やライチョウ撮影のため北アルプスへ登ったときに、ときおり各地に建つ山小屋の主人やスタッフからクマの目撃情報を得ていました。しかし、私自身はまだ一度として高山帯でクマを目撃したことがありません。ただ、梅雨明けを迎えたころの高山帯には、辺り一面に芽吹いたばかりの柔らかい植物が満ちあふれた場所があります。おそらくそれを求めて山を登ってくる個体がいるのではないだろうかと想像していました。

梅雨が明けて高山帯に夏が来た。同じ時期、柔らかい植物を求めてクマも山を登ってくる。

 
それにしても山岳地、特に高山帯では登山道を外れての接近撮影は厳禁です。したがって野鳥撮影と同様に望遠レンズなどが必要になりますが、その機材はとてつもなく大きく、重量もずっしりとかさみます。ようやく準備を整え、初めてクマの撮影を目的に北アルプスの高山帯に入ったのは、遅い梅雨が明けて天候が安定した2013年8月のことでした。
標高2,700mにある山岳パトロール隊の詰所に情報を求めて顔を出したのはお昼前。そこでパトロールのスタッフから思いもよらぬ話を聞かされました。この日の夜明け前、まだ暗い時間帯に走行していた大型バスにクマが飛び込み、轢かれて死ぬという事故が発生していたのです。
北アルプスの高山帯には大型バスが通行する山岳路線がいくつかありますが、関係者によれば「このような事故は聞いたことがない」とのこと。標高約2,400mの事故現場での写真を見せてもらうと、轢死したのは80kg以上はありそうなオスグマでした。出会えたかもしれないクマが死んでしまったのは残念でしたが、それ以上に「高山帯にクマが来ている」という現実を初日から確認できたことは収穫でした。
天候も安定しているので、とりあえず事故現場周辺の様子を見ておこうと思いました。すると歩き始めて間もなく、道端に動物の糞を発見。かなり大きく、これは間違いなくクマの糞です。しかもその場所には新旧2つの糞が数m間隔で並んでいました。
現場は山頂部と森林帯を最短で結ぶ谷へと続いている地点。「もしかするとここはクマの通り道かもしれない」。そこで、見下ろす谷と対斜面全体を見渡すことができるポイントに移動し、双眼鏡で時間をかけて捜索していきました。ときおりミヤマモンキチョウやコヒオドシといった高山蝶が飛来したり、イワヒバリやカヤクグリたちの訪問があったりと、退屈することがない現場です。
しかし長時間眺めているうちに山腹や谷が次第に逆光気味になってきました。歩き始めてすぐに痕跡を見つけることができたのは幸運でしたが、その後なかなかクマの姿は見つかりません。仕方がない。戻ることにしました。
 

数年おきに花が咲くコバイケイソウは有毒。クマはその周辺にある植物をくつろいだ姿勢で食べていた。

 
道を戻り始めてからしばらく、最初にクマの糞を見つけた地点に引き返してきたときのことです。突然左手の斜面上部からガラガラと落石音が響いてきました。その場に立ち止まって見ていると、転がる岩石とともに斜面を駆け降りてくる真っ黒な動物の姿が。紛れもなくクマでした。
クマは20mほど先の道端に一瞬立ち止まり、こちらをチラッと見てから下部のハイマツ帯の中へ潜り込んでしまいました。不意打ちを食らって撮り逃してしまったものの、まだハイマツが揺れています。ファインダーでそれを追っているとクマは大きな岩の上に再び姿を見せ、そこで初めて「高山帯に生きる姿」を捉えることができました。
ほんの短時間の出来事でしたが、初日から出会えたことは幸運だったように思います。
 

戯れの瞬間

ところで高山帯での撮影では、私は山小屋を利用しています。仮に撮影機材が小型だったり、滞在期間を1泊にすればテント泊や野宿も可能でしょうが、クマ狙いではちょっと難しい。そんな理由から私の高山帯での滞在は3〜4日程度のことが多くなります。
このときは事前の下調べが功を奏したのと、梅雨明け後の好天に恵まれたことが幸運でした。初日だけでなくその後も連日、どこかの岩稜やお花畑といった、高山帯ならではの環境を背景にしたクマの姿を捉えることができたのです。
そして日程は最終日を迎えました。この日も快晴。朝一番に山岳パトロール隊の詰所に顔を出すと、東側の雪渓付近での最新情報が入っていました。どうやらちょっと前に親子2頭が目撃されたらしい。高山帯での親子グマの様子はどうしても撮影しておきたいシーンでしたが、残念ながらいまのところ出会えていません。とにかく急いで現場に向かい、30分ほどで出現があったとされる付近に到着しました。
その場所は上部に大規模な雪渓があり、下部に小さな尾根と谷が連続するという環境です。上部の雪渓は夏スキーのゲレンデとなっていて、多くのスキーヤーたちが滑走しています。休憩しているスキーヤーたちに話を聞いてみると、誰もクマの姿など見ていないようです。どうやら人が多い上部の雪渓ではなく、下部の小尾根と谷が連なる辺りにクマが現れたと考えられます。視界が開けた場所でしばらく様子を見ることにしました。
晴天の高山帯では、お昼すぎを中心に真夏の気温は急上昇します。それが冷えた地表との間で気流を撹乱。激しい陽炎が発生し、正確なピントが得られなくなります。
撮影距離が30mを超えると悪影響は甚大です。この日も9時を回ってその傾向が急速に出始めていました。「もう少しで限界だ」と思い始めたそのとき、150メートルほど離れた岩の隙間から覗く雪渓上を何かが動いた気がしました。登山道を下ってギリギリまで近づいて行き、岩の隙間からそっと覗いてみると……雪渓には親子2頭のクマが寝そべっていました。
 

垣間見た「残雪相撲」。ほんのわずかの間ではあったが、親子は緊張感を解いた姿を見せてくれた。

 
ときどき子グマが起き上がって母グマのところへ駆けていき、その身体の上に乗ったりしています。どうやら遊びをせがんでいるようです。しばらくすると母グマも昼寝を中断し、2頭での「残雪相撲」が始まりました。声を聞き取ることはできませんでしたが、子グマのチャージに母グマが大袈裟にひっくり返ったり、ときには母グマが子グマを抱きしめたりと、親子ともに大きく口を開いて笑っているような、実に楽しげな表情がこちらにも伝わってきます。
これは現実に起きていることなのだろうか……。私にとって初めて『野生の深淵』に触れることが許された瞬間だったと思っています。
 

巨大グマの接近撮影は難しい

さて、ツキノワグマの成獣の大きさは北海道のヒグマには遠く及ばず、たとえ大型の個体であっても体重120kg未満というのが研究者を含めた大方の見方でしょう(※2)。
 
※2:クマの成獣ではオスのほうがメスより体重で2〜3割ほど大きくなります。ツキノワグマの場合、メスの体重が100kgを超えることは滅多にありません。小型軽量という利点のひとつには出産があると考えています。メスグマのほうが小さければ冬眠穴(出産現場)の入口も小さくてよく、大型個体の侵入を心配することなく越冬中に出産と子育てができるからです。
 

2019年度、ツキノワグマの補殺数はこれまで最多の5283頭を記録。ところが昨年度も5830頭と、大幅に史上最多捕殺数を更新した。2年間で1万1千頭を超える大量の駆除を受けて、これから先のクマ社会がどうなっていくのか。しっかり見つめて行こうと思っている。

 
私自身もそう思っていました。実際、120kgを超すと思えるツキノワグマの映像は、これまで見たことがありませんから。
ときおり鉄砲撃ちが撮影したYouTube映像に「150kg」とか「200kg」と称する獲物が出てきますが、これまで300頭を超えるツキノワグマを目撃してきた私の目には、その映像に登場するすべての個体が「誇大表示」に見えてしまいます。では、ヒグマに匹敵するような大型のツキノワグマは、実際には存在しないのでしょうか。
私はこれまで、撮影不可能なほど暗い時間帯になると、はるか遠方に現れるとてつもない巨大グマをたびたび観察していました。当然のことですが、大グマは簡単に撃たれないからこそ長生きができ、大きくなれるわけで、したがって警戒心が極めて強い個体です。これまで、そのような本物の大グマとの接近写真を発表した撮影者はおそらく存在しません。
もしかするとベテランの鉄砲撃ちであれば「本物の大グマ」を見ているかもしれませんが、きっとはるか遠くの射程圏外にいる姿でしょう。じつは……すでに巨大グマとの接近撮影に、私は成功しています。そのうちどこかでその写真が発表できるといいんですけどね。ここだけの話です(笑)。
 

●ツキノワグマについてもっと知りたくなったら

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関連イベント


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Author Profile

澤井俊彦

東京都生まれ。1980年から北アルプス地域でコダクロームフィルムによる撮影を始め、現在は『季の肖像』『森の肖像』『山の肖像』の3つを柱にして日本の山を撮る。2016年、第5回田淵行男賞受賞。

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