日本森林学会選定林業遺産「遠山森林鉄道の資料及び道具類・遺構群」構成要素の一つ「ながとろ橋」(撮影:武田泉)
「林業遺産」という言葉を聞いて、具体的にイメージできる方はどれくらいいるだろうか。
この言葉は、2010年代に入って使われるようになった新しい言葉だ。「林業遺産なんて聞いたこともないし、見たこともない」という方がほとんどだろう。
しかし……林業遺産は、山の中や博物館などに、無数に存在している。気づかずに目撃している方、その場を訪れた方はたくさんいるはずだ。もしかすると、自宅にもひっそり眠っているかもしれない。
なぜ多くの林業遺産が存在しているのだろうか。
そもそも、林業遺産とはなんだろうか。
(この記事は『林業遺産へ行こう 自然の力を活かす、昔の知恵を再発見』より、「はじめに」「林業遺産ってなんだろう」を再構成したものです。)
室町時代からの林業技術を継承する吉野地域の植林地(撮影:深町加津枝)
現在では、燃料として石油、建材として鉄筋やコンクリート、農業でも化学肥料といった資源が欠かせない。しかし、こうした資源が供給されるようになったのは、この1世紀ほどの話に過ぎない。その前の時代には、燃料として薪や木炭、建材として木材、肥料として枝葉や草が、ずっと使われてきた。いずれも森林に由来している資源である。森林から資源を生み出すための林業が、かつての人々にとってどれほど重要だったか、容易に想像できるだろう。林業は現在、「儲からない産業」の一つとして紹介されることが多い。実際、GDP(国内総生産)に占める林業の割合は1%にも満たない。しかし、50年、100年単位で時間をさかのぼると、現在とは異なる林業の姿が見えてくる。林業は、儲かり、農山村にとってなくてはならない一大産業だったのである。
各地に無数に残る林業遺産は、その残り香を伝えるものといえる。
森林内で行われるエコツーリズムのようす(撮影:柴﨑茂光)
林業は、「木を植えて(造林)、木を育て(育林)、木を切って(伐採)、また木を植えて(再造林)」というプロセスを繰り返す産業、という理解が一般的だろう。一方で、これは林業の一部だけをとらえた理解だともいえる。
総務省が公表している「日本標準産業分類」という資料には、林業とは「山林用苗木の育成・植栽、林木の保育・保護、林木からの素材生産、薪及び木炭の製造、樹脂、樹皮、その他の林産物の採集及び野生動物の狩猟など」(2013年10月の第13回改定による)と書かれている。建築材などの用材、薪や炭といった燃材の生産にとどまらず、山菜・きのこ・薬草といった林産物の採取や、シカやイノシシといった野生動物の狩猟活動も林業に含まれるということだ。
しかし、この定義もまだまだ狭い。林業の舞台である山の恵みは、木材や林産物などの消費することを前提とした「モノ」だけではないはずだ。美しい林の中を歩き、壮大な景観を楽しみ、また浄化された空気を胸いっぱいに吸うことでリラックスできるのも、貴重な山の恵みといえる。脈々と受け継がれてきた資源生産活動に加え、ここ数十年に誕生した、エコツーリズム、グリーンツーリズム、森林セラピーといった新しい産業も、林業の一部だと考えられる。
一方、ときに山は、土石流などの「災い」ももたらす。近代以前の人々は、こうした荒ぶる山の強大な力に「畏(おそ)れ」を抱き、そこに神の姿を見、山岳信仰をつくりあげてきた。こうした文化も、山の恵みに違いない。
このように考えると、林業は「山とのかかわりを持ちながら、木材・薪炭材・動植物・楽しみ(畏れ)といった山からのさまざまな恵みを受ける活動や、山地災害を軽減させるために行う活動」と幅広くとらえることができる。日本の近代林学の創始者の一人で帝国大学農科大学助教授(当時)だった本多静六(ほんだせいろく)は、1894年刊行の著書『林政学 前編』のなかで、林業を「森林を仕立てこれを直接又は間接に吾人の需要に適せしむる所の作業(森林をつくって管理し、社会のさまざまな需要に応える作業)」と書いている。130年前、本多はすでに、木材生産(直接的効用)だけでなく、公益的機能(間接的効用)を発揮する作業も林業に含めていたのである。しかしその後、技術の近代化や学問の細分化が進む中で、狭い意味の「林業」が定着してしまったのだろう。
白山白峰地区で再現された焼き畑の風景(撮影:柴﨑茂光)
50年、100年後の世界を想像してみよう。林業は、おそらく今以上に、人類にとって不可欠な産業になるはずだ。現在のような大量消費の生活を続けることが可能かという、資源制約の問題が潜んでいるからだ。後世に大量の廃棄物という負債を負わせる環境問題も放置できないはずだ。
こうした問題の解決に、林業は一つのヒントになる。森林は、いったん伐採しても、植林、定期的な伐採などの手入れを怠らなければ、次の世代のための樹木が成長してくるからだ。現代風にいえば、林業は再生可能資源を活用し、SDGs(持続可能な開発目標)の多くの目標達成にも貢献する産業ということになるだろう。したがって、長く持続的に継承されてきた林業技術・思想のなかには、未来の人々に向けた多くのヒントが隠されているに違いない。将来的に、石油・コンクリートなどの資源が枯渇してもなお、昔の手法は応用できるはずだ。林業遺産は、「古くてもナウい」、立派な資源とみなすことができるだろう。しかし、そうした林業技術、思想の中には、もう廃れてしまったものもあるかもしれない。林業遺産は、受け継がれてきた知恵をこれ以上風化させないためのものでもある。
福井県の熊川地域でつくられる「葛粉」。江戸時代から続く伝統製法が今も伝えられている(撮影:奥敬一)
林業遺産は、日本森林学会という学術団体により選定される。
1914(大正3)年設立のこの学会は、設立100周年の記念事業として、2013年度に林業遺産選定制度を開始した。「林業遺産」という言葉は、この選定事業をきっかけに誕生したといってよいだろう。以来、2023年度までの10年間に全国51か所の林業遺産を選定している。
林業遺産は、①日本森林学会の学会員が遺産候補を推薦、②林業遺産選定委員会で審査、③学会理事会が承認、という手続きで選定される。学会員でなくとも、学会の林業遺産地区推薦委員に依頼すれば推薦の代行をしてもらえるので、身近に貴重な資料がある場合は連絡してみよう。地区委員の名簿は、学会のウェブサイトで公開されている。
官民共同で農業・林業振興が図られてきた福岡県矢部村では,地域の人々の手で集められた林業関連資料が「杣のふるさと文化館」に展示されている(撮影:奥山洋一郎)
日本森林学会で活動する10名の研究者が、全国の林業遺産を訪れて執筆した図書『林業遺産へ行こう』では、「山とのかかわりを持ちながら、木材・薪炭材・動植物・楽しみ(畏れ)といった山からのさまざまな恵みを受ける活動や、山地災害を軽減させるために行う活動」である林業活動を通じて「地域の歴史の中で何らかの意味を有する有形物または無形物」を林業遺産と定義し、その意義や魅力を紹介している。執筆者らは、林業遺産が地域の人々と継続的に関係を持ち、いわゆる「地域の宝」として認識されることを望んでいるという。単なる遺物・遺構では、一時は保存されたとしても、いずれは放置されて朽ちたり、捨てられてしまうが、「地域の宝」と認識されれば、後世にその価値が伝えられ、持続的に活用されると考えるからだ。
山林を所有している家の物置きには、先祖が使った鋸(のこぎり)や草刈り用の鎌が残っているかもしれない。そうした用具も立派な林業遺産なのだ。
森林の歴史を辿る旅に出たくなったなら
『林業遺産へ行こう 自然の力を活かす昔の知恵を再発見』
旅が好き、自然が好き、伝統文化が好き、そして鉄道が好きな方に。
長く花形産業だった林業の歴史で育まれてきた、森を育てながら利用し続ける知恵と技術。それは、いままさに求められる「持続可能な自然利用」に貢献しうる宝物です。そうした宝物たちを研究者が取材、見学コース案を作りました。
柴崎茂光 編著 / A5判 / 256ページ
ISBN 978-4-8299-7111-6 2025年4月30日発売
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Author Profile
柴崎 茂光(しばさき しげみつ)
東京大学准教授・専門は林政学。山村、離島地域の持続可能な発展と森林環境保全の両立可能性に関する研究が大テーマ。歴史・文化にこそ地域発見の鍵になるヒントがあると考え、フィールドワークを核に民俗研究映像の発表や林業遺産など歴史的資産の保全に関する研究を進める。