前編では、悪戦苦闘のハエトリグモ撮影と飼育秘話を語っていただいた。
後編は、新種発見にかける情熱と採集への飽くなき執念に迫ります。
さて、前編ではいかに魅力的にハエトリグモを撮影するか、その異常なまでのこだわりについて書いたが、後編では採集の話を書いていこう。私はこの「採集」という行為が何よりも好きだ。前編にもあるように、『ハエトリグモハンドブック』は日本産のハエトリグモの全種を掲載することを目標に制作していたので、国内の色々な場所を採集で訪れた。その目的のためにフリーターになってしまった私を、ある知人は「くものプーさん」と称した。じつに言いえて妙だと思う。
日本からは100種以上のハエトリグモが記録されているが、それらは種によって分布や生息環境の好みが違う。森を好む種と草地を好む種、その中でも草の葉の上にいる種と地表にいる種など、「探すポイント」が細かく分かれているのだ。全種採るためには、色々な地域の色々な環境を回る必要がある。時々、「狙った虫を採るのが驚くほどうまい人」というのがいる。こういう人は「環境を見る目」が並外れて鋭い。ぱっと場所を見たときに、明るさや湿気、草木の密度、土の様子などの情報を瞬時にとらえて統合し、もはや感覚的に「あれがいそうな場所だな」と感じることができる。超人技巧のように思えるかもしれないが、たぶん世の多くの女性は同じことをやってのけている。服を買う店を選ぶときだ。例えば私の妻は、私には違いのわからない複数の店の中で「あの店じゃなくてこの店」と速やかに決めることができる。これは、ぱっと店を見たときに、置いてある服や店員の様子を瞬時にとらえて統合し、自分に合うかどうかを「雰囲気として」判断しているのだと思われる。
話が逸れたが、採集でこのように「雰囲気で当たりをつける」ことができるようになるためには、かなりの経験を積む必要がある。未熟な勘を補うためには、とにかくトライ回数を増やすのみだ。それを実感したのがアリガタハエトリを採集したときのことである。これは北海道のみに分布する種で、大きさは3ミリほど、名前の通り姿はアリに似ている。河川敷など平地の草地に生息するのだが、採集経験者は私の知る限り北海道在住の1人だけという珍種だった。私は北海道に行くたびにこの種を探していたが、まったく出会うことができなかったため、その方にピンポイントで場所を教えていただき、ついにはアリガタハエトリだけのために北海道へと飛んだ。ちょうどゴールデンウィークで、関東なら心地良い陽気の続く頃だったが、北海道は平地でもまだ雪が残っていた。冷たい風の吹き荒ぶ中、河川敷に這いつくばって小さなクモを探すのはなかなか辛いものがある。目当てのものが採れさえすれば、そんな苦労など忘れられるのだが、3日間の日程のほとんどをその場所に費やしたにも関わらず、無情にもアリガタハエトリの姿を拝まないまま、とうとう帰りの飛行機の時間が迫ってきてしまった。「なんとかしてまた1泊で、いや日帰りでもいいからリベンジしよう」と思いながら泣く泣く車を走らせ、空港付近まで戻った頃に時計を見ると、幸運にも30分ほどの余裕があった。そこで、最後にもう1ヶ所だけやってみようと、近くの小川のほとりに車を停めて草地をのぞきこんだ。果たして、神は私を見捨てなかった。まだ早春の地面をおおっている枯れ草の上を、夢にまで見たアリガタハエトリが闊歩していたのだ! 私はそれを大切に容器に収めると、「よっしゃ!!」と一人吠えた。
苦労の末に手にしたアリガタハエトリのオス。
決してお金で買うことのできない、まさにプライスレスの宝物
結局、このときはこの1匹だけのために北海道まで行ったことになるが、1匹だろうが採れれば大成功である。やはり採集は諦めてはだめだ。これは精神論のきれい事ではない。確率の低いものはトライ回数を増やしてなんとか引き当てるしかないのだ。「名人たちの勘」も、莫大なトライ回数の産物なのかもしれない。それにしても、最後の最後に報いてくれたアリガタハエトリには本当に感謝である。
そんな苦労もありながらも、多くの方に協力していただいたおかげで、不可能に思われた日本産全種制覇の目標は、じわじわと現実味を帯びていった。ところで、この「全種」というのがじつは曲者だ。切手のコレクションとは違い、生き物には「まだ見つかっていない種」すなわち「新種」がいる。誰かが新種を発表するたびに、「全種」の数は増えていくのだ。私自身も、論文を書いていくつかの新種や日本新記録種を発表している。名前をつけられるのを待っている新種候補のハエトリグモが日本にどのくらいいるのかというと、私が認識しているだけでなんと30種以上。とりあえず、ハンドブックには既知の全種を載せることを目指していたのだが、当時の新種候補の中に、どうしてもハンドブック出版までに名前をつけて載せたいものがいた。
そのハエトリグモを人目から隠し続けていたのは、奄美大島の原生林だった。あるとき、当時、東京農工大学に在籍していた学生さんが、林縁に粘着シートを置いて、どんな虫が徘徊しているのかを調査した。この調査でたくさんのハエトリグモがかかり、私はそのシートの画像から種名を教えてほしいと頼まれた。たくさんの画像が送られてきて、見慣れたハエトリグモが続く中、突如、私の目を釘付けにする1匹が出てきた。明らかに日本の既知の種ではない姿だったのだ。忘れもしない、「IMGP8017」というファイル名の画像だった。こんなやつがいるのか! 胸が躍ったのを覚えている。粘着シートに付いた個体は状態が傷んでしまうので、研究のために新鮮な標本を採りに奄美大島へ飛んだ。しかし、これが見つからないのだ。学生さんの調査地まさにその場所で探しても、1匹たりとて見つからない。以来、奄美大島に行く度に血眼になって探すも空振りが続く。そしてある年の夏、全日程をその場所に費やす覚悟で挑んだ旅行で、ついに「8017」は現れた。オオシマゼミの声が響き渡る林道、そのわきに生えたコケや芽生えの上に、上品にたたずんでいたのだ。ビロードのようなつやのある深い褐色の体に、象牙色の模様が散らされたその小さなクモは、林床の静けさの中でスターのような彩りを放って見えた。
「8017」を採集したときは、こんなところを延々と見て探した。写真の真ん中に1匹いるのがおわかりいただけるだろうか?
晴れて命名されたハヤブサカノコハエトリのオス。
背中にはハヤブサを携える
それから私は、その30メートルほどの範囲を丸1日往復し続けて、1匹ずつ「8017」を捕らえていった。近くの似たような場所では見られなかったり、その場所でも天気や風の様子によってまったく現れなかったりと、かなり条件の限られる種のようであった。幸い滞在中に10匹強を得ることができたため、その標本で研究を進めて、ハンドブック出版の半年前になんとか論文が発行された。これがハヤブサカノコハエトリである。カノコハエトリの仲間で、胸の部分にある模様がハヤブサの飛ぶ姿のシルエットに似ていることからこの名前をつけた。日本産の中でも思い入れの強いハエトリグモの1つである。
新種記載論文。
この種はこれまでに見つかっているどの種とも区別できる特徴をもつので、新種として新しく名前をつけますよ、という内容
こうして、論文も書きながらハエトリグモを集めに集め、ついに日本産の105種のうち103種を掲載した『ハエトリグモハンドブック』が誕生した。全種へは惜しくも2種及ばなかったものの、できることはすべてやったと納得できる結果である。載せられなかった2種を採ること、そして新種候補たちに名前をつけていくことと、まだまだ私のハエトリグモ道は続いていく。大の大人がちっぽけな虫相手にこれだけ熱中させられるなんて、めでたいことだ。いつの日か『改訂版ハエトリグモハンドブック』を出版する機会に恵まれたなら、初版発行後の私の歩みを見届けていただきたい。
Author Profile
須黒 達巳
慶應義塾幼稚舎教諭.クモ,特にハエトリグモの研究に勤しむ.ウェブサイト「ハエトリひろば」を運営.主な著書に『ハエトリグモハンドブック』(文一総合出版),『世にも美しい瞳 ハエトリグモ』(ナツメ社).Twitter:@haetorihiroba