第11回 条件つきの退院
さらにやせました。体が食べ物を受け付けないのに対して、高熱を出すわけですから、熱収支はマイナスになるはずです。結果、体重がどんどん落ちていくわけです
原虫駆除の投薬治療が始まったからといって、すぐに体がましになるわけではありません。体の痛みと違和感は相変わらずどころか、ますますひどくなってゆく気さえ致します。実は、マラリアと判明してからのその日の記憶があいまいで、友人がいつ帰ったのか、その日にどんな治療を受けたのか、ほとんど覚えていません。その夜は、何度も渦巻きの夢を見ました。これではまともに寝られそうにはありません。ベッドの上でぼんやりと痛みに耐えていたとき、ふとマラリアに罹った偉人の話を思い出しました。
アインシュタイン、コペルニクス、キューリー、科学界にはたくさんのスーパースターがいらっしゃいましたが、生物学界のスーパースターは間違いなく、進化理論を発表したチャールズ ダーウィンです。しかし、実は彼と時を同じくして進化理論を思いついた男がもう一人いるのです。イギリスの博物学者、アルフレッド ウォレスです。進化理論は1859年11月に、ダーウィンが『種の起源』という本で発表したことはよく知られていますが、その直前の1859年7月に、リンネ学会にダーウィンとウォレスは共同で、進化理論の概要を発表しているのです。つまり、ウォレスもダーウィンと同様の進化理論を思いついていたのです。ウォレスとダーウィンは親交があり、彼らが交わした書簡が多く残されています。そしてその中に、ウォレスが進化理論を着想した経緯が書かれてあります。
ウォレスは現在のインドネシアとマレーシアの辺りを探検し、この経験から進化理論を築いていったようです。そして、進化理論を思いつくのに重大な貢献をしたのが、マラリアだったのです。つまり、彼がマラリアの熱病に倒れ伏したまさにその時、新理論を思いついたのです。マラリアを罹患したウォレスは、時々、マラリアによる熱発作に悩まされたそうです。マラリアの熱が出ている間は、体の自由が利かず、横になるしかないがため、そんな時決まって彼は進化理論の構築に勤しんでいたとのこと。そして、ある日のマラリアの熱発作のさなか、進化理論の大筋を着想したらしいのです。
さすれば、今の私の状態は、まさにウォレスが進化理論を着想した場面と重なるわけで、病床に伏したウォレスに進化理論が舞い降りたがごとく、私にも、今まで誰も思いつかなかった、全く新しい発想から生まれた素敵なアイデアが浮かび上がっても不思議ではない状況なのです。いや、浮かび上がるべきでしょう。
……とはいえ、いつまでたっても私には、進化理論のような、何か素敵な、世界を変えてしまうようなアイデアが舞い降りることはありませんでした。代わりに、「死んじゃったら、今回取ってきたデータのまとめはどうなるのかな?」とか「死んじゃったら、学生の指導できなくなっちゃうな。学生たちに申し訳ないな」とか「インドネシア科学院への調査完了報告とか、調査の後始末を隊長に押し付けちゃったな。申し訳ないな」といった、結構、世俗的な話題しか思い浮かんできませんでした。悲しいことですが、「自分はウォレスではないのだ。凡人の方だったんだ」、と今更ながら認めるしかありませんでした。いじわる。
誤診が判明した次の日に、なぜか私は6人部屋から個室に移されました。外国人だからと気を使ってくれたのかもしれませんが、タイミングがタイミングなだけに、誤診のお詫びのような気がしないわけでもありませんが、まぁ、個室の方が気が楽なのは確かですから、文句を言うところではないな、と思い、ありがたくそのオファーを受け入れました。病室に現れたJBは、一応は申し訳なさそうな顔をしていて、いつものゲロッパ感がありません。JBに、私がかかったマラリアの型を聞くと、これまた申し訳なさそうに、
「熱帯熱ぅマラリアぁ、的なぁ」
と語尾を少し上げながら答えてくれました。ちょっと、あいまい感を残したかったようですが、病名にはいくら頑張ってもあいまい感は醸し出せません。熱帯熱マラリア(第7回参照)とは、よりによってやばいやつにかかってしまっていたようです。
マラリア駆除の治療を受け始めて3日目になると、体調はずいぶん楽になりました。もう、渦巻き空の夢を見ることもなくなりましたし、熱も38度を超えなくなりました。こうなると、がぜん日本が恋しくなります。
日本にはマラリア治療を受けられる病院が少ないでしょうから、このままインドネシアに残って治療を続けるというのも一つの判断かとは思いますが、入院期間中に言葉がうまく伝わらない不自由さを嫌というほど痛感してしまったので、もう一刻も早く帰国したくてたまらなくなっていました。そこで、JBに帰国したい旨を直訴すると、
「確かに熱は出てないんだけどね、血液検査はいい結果じゃないから、この状態では退院させられないのよ」
とおっしゃります。少なくとも、後10日は入院しなさいとの意見です。いじわる。
それからというもの、熱発作もなく、小康状態を続けているのですが、一向に血液検査はよくなりません。「もう、いい加減に帰りたい」と、JBに会うたびに駄々をこね続けると、JBは困りながらも、
「じゃあ、後二日だけ様子を見て、何も起こらなければ退院していいよ」
と言ってくれました。結構、無理やりな感じの退院でした。私は言い続けることの大切さ、継続は力なんだなぁ、と実感しました。
ただし、退院にあたって、2つのお願いをされました。この2つの要求が飲めるならば、という条件付きの退院許可です。
1つ目は、事務的というか、まぁ、そういう感じのお願いで、私の体調が戻る前の退院ですから、病院としても不本意なところがあるようで、もしかすると退院後に容態が急変することが懸念されるということです。そこで、と、またまたインドネシア語で書かれた書類が登場したのです。JBに何が書いてあるのが聞いてみると、
「まぁ、ざっくりいうと、『退院後に何があっても、病院を訴えない』という誓約書だよ」
と教えてくれました。私は再び、「サインさえすれば退院させてくれるのですね」、と追い詰められた債権者の精神になり、気軽にサインしました。
もう1つのお願いは、退院後の体調管理についてでした。原虫が完全に駆除できていない状態での帰国になります。抗マラリア薬が効いているはずだから、このまま放っておけば、そのうちに、体から原虫が駆逐されていくはずなのですが、その間に気を付けないことがあるようです。
まずは、マラリアによりすでに壊されてしまった赤血球です。私の血中の赤血球の数はかなり低くなっており、いわゆる貧血という状態らしいのです。ご婦人はご存じないかもしれませんが、男子はあまり貧血になる人がおりません。なので、多くの男子は貧血の経験が乏しく、自分が貧血の状態であることの認知が遅れがちなのです。貧血の状態を知らぬままで無理をすると、突然意識を失うなどの予期せぬことが起こるらしいので、自分で貧血の程度を理解しておくことが重要なようです。そのためにも、定期的に赤血球の数を調べていくようにと助言されました。週に1度調べればよいそうです。
それから、血小板の数も同じように調べなさいと言う指示です。マラリアが再発した場合は、血小板が下がりがちだから、血小板の数はマラリア再発の指標になるとのことです。赤血球と血小板の検査ならば、どこの病院でもできるはずです。帰国後も週に一度の割合で血液検査を受けることを約束しました。
そういえば、私の体内のマラリア原虫はどういう状態なのでしょうか?まだ完全には除去されていないと、いつもJBはおっしゃるですが、いったいどれくらいいるのでしょうか?
次回予告
紆余曲折を経て、退院できることになった筆者! マラリアになったその後とは? 次回、ついに最終回!
Author Profile
山田 俊弘
広島大学大学院 総合科学研究科 教授.博士(理学)
熱帯林での25年を超える研究歴(植物生態学・森林生態学)があり,毎年数回,インドネシア,マレーシア,ミャンマーなどの熱帯林で調査を行っている.専門は熱帯林の生物多様性とその保全.2015年 日本生態学会大島賞受賞.著書は『絵でわかる進化のしくみ 種の誕生と消滅』(講談社),『温暖化対策で熱帯林は救えるか』(分担執筆:2章ー4担当、文一総合出版),『論文を書くための科学の手順』(文一総合出版),『〈正義〉の生物学』(講談社 ).
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